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西田のライフ・ストーリー(1982-2020)

僕の生まれた1982年から、2020年(37才)までを、まとめてみました。

※追記:ブログ移転をキッカケに、2008年~2017年までの記事で、
西田自身の印象に残った記事のまとめを作りました。
一部、この記事に貼ったリンクと同じものもありますが、
その時点その時点で書いた記事にご興味ある方は、
そちらも覗いてみてください。
西田自身の印象に残った投稿まとめ(2008-2017)


【幼少期】

神奈川出身の会社員の父 (お酒が好きで楽しいことが好きで外向的。子どもみたいな人)
京都出身の、公務員の母の間に生まれ、(教養があって禁欲的で内向的。)
3つ上の姉が1人。
母方の祖母と暮らしていました。

奈良で5歳まで育ち、その後高槻の新興住宅地に引っ越してきました。

幼稚園や小学生の頃、体が弱く、とても泣き虫でした。
どちらかというと、室内で女の子と遊ぶほうが好き。

3人で

読書、特にファンタジーやSFが好きで、夢想家でした。
とてもおしゃべりで、声も大きく、

「ひろ君みたいな人がうちにいると、にぎやかでいいねぇ」とか
「あんたは口から生まれたんや」なんていわれていました。

教室には、あまりなじまめない子どもだったようです。
今もし僕が子どもだったら、多分、AHDHとか、学習障害とか、
そういう診断を受けていたんじゃないかと思います。

忘れ物、たち歩く、空気がわからない・・・

「1人学級崩壊」をしているところがあって、
私語や忘れ物などが多く、担任の先生から、
「この子は特殊学級に入れたほうがいい」なんて言われたりしました。

後から知ったのですが、本当に問題児だったらしく、
母や三者面談などでずいぶん絞られたらしく、
三者面談の前は、胃が痛くなっていたそうです。

周りの子ども達は、悪い子達ではけしてなかったと思うけど、
そういう「迷惑」な子どもには、素直に反応して攻撃する。「気持ち悪い」という。
それは僕自身にとっては、わかってもらえない、つらい体験でした。

いっぱい泣きました。

5年生の頃、サッカーが流行し、僕もその仲間に入りました。
ちょっと立場は弱かったけど、放課後、暗くなるまでサッカーをしたり、
みんなでおやつを買ったり、楽しい時間でした。

あるとき、ちょっと思い通りに行かないことがあって、うずくまって泣いてたら、
その友達グループのガキ大将的な子が、僕の襟首をつかんで
「いつまでも泣いてんなや!」と無理やり立たせました。

なんだかこの体験が僕にはインパクトが強くて、
それから、泣かないように、すねないようになろうとしました。
僕が、意識的に自分を変えようとした、初めての体験だったと思います。

学校では、居場所がある感があまりなかった分なのか、
学校外の活動には、よく行ってました。

2年生から始めた水泳は中学校まで続け、公民館の陶芸教室に行ったりとか、
高槻市の青少年課主催の「チャレンジキャンプ」で、福井県から150キロ歩いて帰るとか、
両親がアウトドア好きだったので、山にも結構登りました。
(大人になってから、野外活動業界の方々と仕事する機会があり・・・不思議なものです)

あと、夏休みの自由研究は大好きでした。
機械が好きだった父の力を借りて、
太陽光発電が紹介されたすぐの頃に、日光で動く水陸両用車を作ってみたり、
化石をとりにいって調べたり。
このときばかりは、先生にほめられたりしました。

福音社の「たくさんの不思議」、ミヒャエル・エンデの作品、スターウォーズ、スーパーマン、
ドラゴンボールとか、三つ目が通るとか、キテレツ大百科とか、好きでした。

ところで、育った高槻の、新興住宅地は、ちょっとだけ裕福な人たちの集まり。
周りには、大企業の偉い人とか、教授をしている人とか、なんだか少しエリートな人が多かったです。
似たような年代の人が引っ越してきて、近所には、同世代の子達が一杯。

その後、近所には、DVとか、引きこもりとか、そういう困難を抱える家庭が結構ありました。
僕も、家を離れてから、自分の生きづらさが一気に出てきて、大変な時期がありました。
もしかしたら、その時期の日本が持つ文化・社会のひずみを、
少し凝縮したような地域だったのかもしれません。

【中学生】
中学校では柔道部にはいって、やたらと稽古をしました。
柔道部には、なんだか変わった奴らが集まっていて、
クラスの人よりも、柔道部の仲間とすごす時間が楽しかった。

試合では負け続け、勝ったのは一度だけ。
でも先生が「西田は弱かったけど本当にがんばった」といってくれたのが、
今も印象に残っています。

中学2年生の時、山村留学がはやっていた時期で、
北海道の、音調津(おしらべつ)という場所で1年間、寮生活をしました。

高槻の、保守的な雰囲気の学校、尊敬できない教員達のいる環境、
なんだか、僕には居場所のない感じから、飛び出したかった。

そして、新しい景色を見たかったのもあるし。

寮のなかでは、寮長による暴力が常態化し、
虐待と言ってもいい事態が発生していました。
潰れずにいられたのは、ダメなところもさらけ出せる仲間に出会えたこと、
僕達を一人の人間として尊重し、サポートしてくれる学校の先生のおかげでした。

■その頃についての記事:「そのまんまでいいよ

自分のままでいいのかもしれないって思えた場所、
信頼できる大人もいるって知れた場所、
そして、自分を成長させる喜びを教わった場所です。

本格的にSFに目覚めました。田中芳樹から始まり、筒井康隆にはまり、そこから芋づる式に、
小松左京、星新一、眉村卓、梶尾真治、川又千秋、新井素子、高千穂遥、半村良、夢枕獏・・・・
息をするように、本を読み漁る毎日でした。
僕の言語化する力、常識にとらわれずに考える力、想像力や、人間観は、
ここで養われたと思います。

【高校生】

受験はすごく頑張りました。地元の、「中の上」ぐらいの高校に入学。
高校も、結構保守的な感じの高校でしたが、北海道の経験が役立ったか、
人との関係性は少しよくなりました。

ただ、周りの人と気持ちが通じない感じ、自分が受けいれられていない感がありました。
そして、コンプレックスの裏返しの優越感で、周りの人間を見下していました。
・・・かなり「中二病」でした(笑)

幼馴染の影響で、QUEENやBEATLESなど、ちょっと昔のUKロックを聞き始めました。
彼の影響で、マンガも読み始めました。スラムダンクとか、めぞん一刻とか、名作を色々。
引き続き、SF小説を読み漁っていました。
あまり有名ではないけれど、女優の岡本綾にときめきました。

そんな時、知り合った人から「ドストエフスキーと聖書を読め」といわれて、
まずは聖書を手にとってみました。

僕は今も昔もキリスト教徒ではないですが、
イエスの
「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」
という話に衝撃を受けました。
人が、人を裁くことなんて、本当はできないのかと痛感した体験です。

【留学-目覚め】
そして高校2年生、ノルウェーに留学しました。
公益財団法人AFSの支援のプログラム。

これが僕の転機となりました。
米国、アフリカ、ラテンアメリカ、アジア、ヨーロッパ・・・
世界中から集まった仲間と、言葉を越えたつながりを体感しました。

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性格も習慣も全く違う、共有できるものがほとんど見つからない中で、
同じパンを食べ、経験を共にしているうちに・・・
不思議な連帯感を感じるようになりました。

お互い、異質な人同士。

だれも僕のことを「変だ」なんて排除しようとしませんでした。
英語もほとんど話せないのに、ただの「Hiro」として、仲間として、接してくれた。
特にラテンアメリカの仲間の、どんなときでも、前を向いて笑う生きかたには、しびれました。

そして、クロアチア人の難民に恋をしました。
マリアナという、とても優しく、美しい女性でした。

帰国後して1ヶ月後、米国で9.11同時多発テロ、
そしてアフガニスタンの戦争がおきました。
ビルの崩壊、逃げ惑う人々、兵士、ミサイル、混乱した報道現場・・・

「アメリカのあいつが、兵士として人を殺さなければならないとしたら・・・」
「好きだったマリアナが、親戚を失ったら・・・」
「レイチェルや、その家族が、誰かに殺されたとしたら・・・」
「そして瓦礫の下で、苦しみながら死んでいく人がいる」

足元が崩れていくような恐怖感と無力感のなか、
心の底から、誰も死なないように、傷つかないようにと祈りました。

そして・・・「対テロ戦」の開始、アフガンの空爆・・・
あるとき、アフガニスタンの戦争のニュースを見ていました。

アフガンの女の子が映っていました。
青い目をした、とても可愛い女の子が、笑い続けていました。
年頃は、小学生ぐらいでしょうか。

ケラケラと笑い続けるその女の子を見ながら、
僕は、恋をした、マリアナを思い出していました。
マリアナは、あんな可愛い子どもだったんだろうな、
そしてこれから、素敵なお母さんになっていくんだろうなって。

そしたら、キャスターが、衝撃的な事実を伝えました。
「この女の子は、楽しくて笑ってるんじゃないんです」
「空爆を受けて、正気を失って、笑い続けているんです。」

僕の住むこの世界で、
そんなことがおきるんだということが、受け入れられなかった。

今の自分には何もできないけど、僕の人生の方向性が変わったと思いました。

今ここにいる自分は、心のそこから、世界平和を望み、祈り、願っていると。
そして、世界平和への道を、選択したんだと。

そして、留学関連で知り合った、学外の日本人の友達との時間が、
最高の思い出でした。
価値観を共有できる、世界を知っている、好奇心旺盛な仲間とすごす体験は、
僕の人生での、最大の幸せのひとつです。

父と、母の間に、微妙な距離感があることに気付いたのも、この頃でした。
両親は僕を、彼らなりにたっぷり愛してくれたけど、
どうも、父と母の間には、何か暖かいものが、少ないように感じた。
愛情表現が濃厚なノルウェーから帰った自分は、
じゃあ、僕は何で生まれてきたんだろう、なんて、悩んだりしました。

■その頃についての記事:
留学と恋~9.11の詳しい記事はこちら: 「2001年、夏

【大学生‐転機‐】

国際基督教大学(ICU)に入学。

学友は、好奇心たっぷりで、オープンマインドで、知的で、変わった奴らばかり。
熱意あふれる先生方。

本当に、居心地よくて楽しい環境でした。
水を得た魚のように、すごしました。

一生懸命いろんな授業に出て、
9.11関連のイベントを仲間とやったり、
議員事務所でインターンシップをしてみたり。

政治学、途上国開発や社会学を学びながら、
心の中で、9・11の事、世界のことがずっと引っかかっていました。
でも、学問や政治の分野を学んでも、なんだかピンと来ない。

そんな時のめりこんだのが、合氣道でした。
藤平光一師の心身統一合氣道という流派。
心と体のおもしろさにのめりこみました。

それまで「感情・心」というものは軽視してたんですが、
人って、理屈や理論だけじゃない、複雑で深みのあるものなんだと知りました。

そのさなか、姉が亡くなりました。

ずっと折り合いがつかなくて、でもやっと、いい関係ができ始めた矢先でした。
ごめんなさいも、ありがとうもいえずに、逝ってしまいました。
そして両親は落ち込み、僕の事をケアできない状態になった。

「そうか、これからは、独りで生きていかなきゃいけないんだ」って思いました。
「自分もいつ死ぬかわからないんだ」
「自分が今の人生を100%生ききらなかったら、姉や、望まずに死んだ人に怒られちゃう」
「だから、明日死んでも後悔しない毎日を生きないと。」
「だから自分は頑張らないと。強くならないと。」

毎日、「明日死ぬとしたら、今何してる?」なんて自分に問いかけながら、過ごしていました。

いろいろ重なった時期でもありました。

人生観を変えるような恋と、失恋をしたりしました。
「自分自身よりも大切に感じられる人がいる」という、初めての体験でした。

僕なりに頑張ったけど、心にも身体にも無理がきて、
僕自身が、生きることそのものが、もうつらい時期でした。
(そのうち就職し、社会にもまれて・・・しばらく、かなり大変な状態でした)

3回生でチリに留学。
憧れのラテンアメリカで、1年間をすごしました。

ブラジルにバックパッキングしたり、バスでアンデスを越えてアルゼンチンに行ったり、
カポエラを習ったり、合氣道を教えたり。
充実した一年でした。

だけど、心の中は、大嵐。
自分の生きづらさが一気に噴出してきて、
自分自身と向き合う日々が始まりました。

最初は、コーチングにもカウンセリングにも出会っておらず、
合氣道で学んだ瞑想と呼吸法しか、対処するすべがありませんでした。
あとは、とにかく心をクリアにしようと、冬でも水浴びしたりとか・・・(^^;)

チリではなぜか、ニューエイジ(スピリチュアル系)の人たちとやたらと知り合い、
その影響で、僕もその分野を探求し始めました。
社会学の卒論は、「スピリチュアル実践者のライフストーリーの変化」というようなものでした。

4回生の夏に帰国。
就職活動を30時間ほどで済ませ、卒業します。

■その頃についての記事
姉の死についての詳しい記事:「お姉ちゃんが、いた
大きな影響をうけた、恋についての詳しい記事:「はたちの恋
卒論執筆中に書いた記事:「卒論メモ

【就職】

最初は社員数10人前後の、人材関連のベンチャー企業に入りました。
新卒社員4人でチームを作って、新規事業(新卒紹介)立ち上げという無謀なプラン。
半年ほどで、頓挫しました(笑)。
4人のメンバーは社長から「これからどうする?」と問いかけられました。
会社都合での退社もありだよ、と。

プロとして尊敬できる、力のある社長と社員さんたちだったけど、
自分がどうしても忘れられない、平和や世界の事と、
いましている仕事の、つながりが見えない。

「明日死ぬとしたら・・・今やっていることを、僕はやるだろうか?」
と自分に問いかける中で、
毎日、「NO」という答えが出る。

それまで、しばらく中途採用部門のサポートをしていて、
それなりにお役に立てたらしく、少し引き止められもしたんだけど

「なにか平和とつながることをするんだ」と、
悲壮な覚悟で会社を辞めました。

合氣道などを通して身体性に興味を持っていたこと、
そして、癒しに関わる仕事がしたいと、
マッサージ屋さんでアルバイト。

東京駅近くの店舗で、100人以上のビジネスパーソンの身体に触れ、
お客さんの話を聞きながら、

「ああ、この人たちは、治療ではなくて、手のぬくもり、
人とのふれあいが欠乏してるんだなぁ。
でも、解決する手段が、マッサージ屋に来るしかなくて、
ここに来ているんだなぁ」

と痛感しました。

そして、2つ目の会社に出会います。
不思議なご縁で空間プロデュースの会社に紹介してもらい、
社長と二人三脚で、教育事業の立ち上げに従事しました。

そこで、さまざまな、すばらしい研修講師、
すばらしいワークショップのプログラムに出会いました。
これはもしかしたら、僕にどんぴしゃな分野かもしれない、と思いました。

だけれども内面は、つらいままでした。

孤独感が強くて、
そして、世界も何も、自分を守ることすら心もとない現実が苦しくて、
週に2~3回は、お風呂につかりながら泣いていました。
当時の恋人に、「何でそんなに生き急いでるの?」なんていわれ、言葉を失ったりしながらも、

必死で、
ケン・ウィルバーやアーノルド・ミンデル、フォーシング、グロフのブレスワーク、ゲシュタルト・・・
心理学やトランスパーソナルや、さまざまなセラピー・カウンセリングを勉強しました。

や、現状の大変さ、望む世界と現実のギャップが苦しかったです。

自分を救い上げるために必死でした。

この苦しさ、胸の中で渦巻く孤独感をどうすればいいんだろう。
どうすれば、姉が亡くなって以来、落ち込んでうつむき続けている親を元気づけられるんだろう。
僕みたいにコミュニケーションが下手な奴が、どうやったら平和的な人間関係を作れるんだろう。
夫婦間の暖かい愛情の交流を見ずに育った僕は、どうすれば恋人や将来のパートナーを幸せにできるんだろう。

そして、やっぱり忘れられない、アフガンで気を狂わせて笑い続けていた、少女の顔。
どうすれば、少しでも、あんなことが起きない世界が作れるんだろう。

だけれども・・・・

どれだけトラウマを解放しても、
どれだけ癒されても、
どれだけ瞑想でワンネスを体験しても、

自分のリアルな人生がうまくいってなかったら、不幸なまま。
それに世界では戦争がおき続けている。
内面の平和だけじゃ、やっぱり足りない。
この世界が少しでも(自分にも人にも)住みやすい居場所にしたい。

じゃあ、どうすればいいんだろう?なんて思ったところから、
具体的に現実を変える方法を探し始めました。

■その頃書いていた記事
最初の会社を辞めた頃に書いた記事:「近況報告
二つ目の会社に入った頃書いた記事:「社会復帰

【独立】

不況のあおりで、会社の本業がダメージを食らい、
新規事業はしばらく続けられなくなりました。

だけれども、僕は、やっぱりこの仕事がしたい。
いろいろと、仲間や社長と話し合いました。

そのときに思ったのは、
「自分のやりたいことには、自分で責任を持たないと」、ということ。
最初の会社も、二つ目の会社も、
とてもすばらしい社長と、事業理念、そして素敵なメンバー達でした。

でも、僕立ちは別の人間だから、僕の方向性や望みと、
社長の方向性や望みには、どうしてもズレが出てしまう。

そしてそのズレに「社長はわかってない!」なんて憤ってたわけだけど・・・
この会社を作ったのは、社長なんだから仕方ない。

自分が責任を取らないでいい立場、リスクを負わなくていい立場で、
自分のやりたいこと、自分の望みを社長に押し付けて、
自分はリスクを負わずに叶えようなんて、都合がよすぎる。

猿回しじゃないんだから、うまくいきっこない。

それなら自分でやるしかないと、独立することにしました。

最初は、とても貧乏で、所持金が2,000円ぐらいになって、
営業に行くための交通費を友達に借りたり、
一週間ぐらい、納豆とご飯しか食べれないような時もありました。

一方で、本当に多くの人からの応援とご支援を頂きました。
経験もスキルもない、でもどうやら本気らしい若者が、
わけもわからず飛び出す姿を見て
ちょっと余裕のある先輩方は、ついつい、応援をしたくなってしまったらしく・・・・
本当に、助けられました。

最初は、企業向けに、研修の斡旋をしていたけれど、ぜんぜん成果が出ず。
でも研修アシスタントや、ゴーストライティングなど、講師のサポートをする仕事で喜ばれ、

少しずつ登壇させてもらえるようになり、
個人コーチングにも興味を持ち、
ソリューションフォーカスに出会い、

少しずつ、
「明日死ぬとしたら、今やっていることを、自分はやっている?」という問いに、
「YES」「そうかもしれない」と答えられる日が、増えてきました。

そしていつの間にやら、少しずつ、お金を稼げるようになって来ました。

ご縁にも恵まれ、通訳としてエクアドルに行ったり、
スイスでセミナーをさせてもらったり、
内閣府のグローバルリーダー育成「世界青年」の船に乗ったり、
少しずつ、活躍の幅も広がってきました。

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やっぱり苦しいことも孤独なこともあるし、
将来どうなるか不安だし、
この道がどこに続いているのかはわからない。
だけれども、いま歩いているこの道から、
逃げ出しちゃいけないんだ。

先が見えなくても、
絶対にどこかにつながっている。

そんなことを思う毎日でした。
前のめりでした。

■その頃に書いていた記事:
独立を決めたときの記事。 「エイプリルフールではなく、」
独立1年目の頃の記事「僕が僕でいること、僕が僕でいられること
独立2年ほどしてからの記事「War Cry」・ 「Intermezzo
独立3年目ごろの記事「決心速度(decision speed)
独立4年目、内閣府「世界青年の船」を下船してから書いた記事:「世界青年の船:みんなへの感謝と近況(転載)」

【国連平和大学】

仕事がうまくいくようになって来たころ・・・
すこしずつ、僕の中でこんな疑問が芽生え始めました。

「僕のこの仕事は、本当に世界平和につながってるのかな・・・」

そんな疑問が膨れ上がったころ、
コスタリカの、国連平和大学に留学するチャンスを得ました。

コスタリカで、50カ国以上の学生達と、毎日向き合って、
平和について、紛争について、
自分達に何ができるのか

国連平和大 ディスカッション国連平和大 最後の授業

時には絶望しそうになりながらも、一生懸命学び、議論し、考えて、
そして、学生仲間とも喧嘩したり、笑いあったりしながら過ごして・・・

やっぱり、
対話に、立ち戻りました。

システムによる阻害や抑圧、強制ではなく、
一人ひとりが、自分自身とつながること、
そして、多様性を歓迎し、違いを拒絶するのではなく歓迎すること。

そこから、
多様性が認められ、未来に向かって進める世界が、
生まれるんだろうと思いました。

少なくとも、僕にできることは、そのあたりかな、と。

■その頃書いた記事:

留学直前、色々と停滞や不安を感じながら書いた記事:「自分自身に今、言いたいこと、忘れたくないこと
留学中うまくいかず、悶々としたときに書いた記事 「ちょっと吹っ切れて、すっきり
コスタリカから友人を訪ねて旅行したネベズエラで書いた記事「ゴエン・日本への愛・日本の責任

【最近(2015-2017年ごろ)】

そして帰ってきてからは、
一度大阪の実家に戻り、家族と向き合う、ということをしてみました。
いろいろ大変だったけど、すこし、僕なりの納得感を得ることは、できたかもしれない。

そして・・・同時に、しばらく、活動をスローダウンしていました。

おそらく、姉を亡くして以来か、もしかしたら9・11以来、
ずっと取り組み続けていたことが一段落して、
次の新しい季節が始まる、合間にいたんだと思います。

(多分ここ10年、15年をかけて、自分らしく生きること、人平和な関係を築くこと、
どうやったら僕なりに、僕が苦しくない、喜びを感じる形で、社会や世界とつながれるか、
どうやったら、自分と人を許し、受けいれ、その上で前に進めるのか、模索していたんだと思います)

そして、少しずつ、また動き始めながら、
コーチとして起業家や、外資系マネージャーなど、いろいろな人をサポートさせてもらいつつ、
死別・喪失体験をした方のサポート(グリーフケア)をさせてもらったり、
さまざまな場所で、コミュニケーションや、チームビルディングをお伝えさせてもらいつつ、
世界青年の船のファシリテーターをしたり、
いきづらさを抱える若者向けの「洋上フリースクール」専属カウンセラーとして世界一周をしたり、

世界青年の船 社会起業家コース 世界青年の船 ファシリテーション 社会起業家

自分にできること、コツコツとしています。

生きている間に実現するかはわからないけど、
「この、私達が生きる世界を、これからみんなで、どうしていこうか」を、
全人類で、本当に一人残らず地球上の全員で、
話し合える世界に、近づいていけたらなと。

システムや権威による誘導や強制ではなく、
それぞれの想いや才能をもとにして貢献できる場。

それぞれが、自分の本当の気持ちを伝え合い、分かり合える場。
多様性を歓迎し、お互いの違いから学び合える場。
そんな場作りを通して、だれもが生きやすい空間、
対話を通して、未来を作っていける場をつくり、
そして全人類で、未来について話し合っていける場を目指して、
日々、活動しています。

■国連平和大から帰って2-3年ごろ考えていること

・世界について思うこと
世界を見ると、絶望しそうにもなるけれど・・・「ほぼ無力であるということ
ぐっと来た詩を翻訳しました 「“Pray 祈ろう” by Karuna Ezara Parikh

・コーチング観
8年前(2010年。27才)に書いた記事。この思いはそのまま「Open the Space
こんな感じで、人に関わりたいなという話 「愛おしいから、大切だから

・死別・喪失について思うこと:
死別体験をした人を取り巻く環境・孤独 「話せないこと・疎外感・タブーにされる死
死別・喪失を体験した人、そして以前の自分へのメッセージ「泣いてて、いい(大切な人をなくしたら)

【2020年現在】
そして!!!僕に大きな出会いがありました。
伝統工芸の職人さんたちです。

焼き物、仏具、鋳物、木彫、染め物・・・

「コーチとして役立てそうだし、通訳もできるし」ということで
台湾のFine Art Asiaという展示会に帯同したりしているうちに、
彼ら彼女らの想いにほれ込みました。

お一人お一人、本当に素敵な思いを持っている。
それにひとつ一つの作品が、ずっと手に取っていたい、
ずっと見ていたいものたち。

そういえば、世界中、特にラテンアメリカで、
伝統のデザインや手工芸の柄だけを、
先進国のファストファッションがパクるのをみるたびに、
悲しく、憤りを覚えていたんです。
(ネイティブ柄と呼ばれるやつです)

だって、その素晴らしいデザインを守ってきた人たちには、
一円だって入らない。
その一つ一つの柄や形に秘められた意味や物語、祈りなんて無視して、
ただのおしゃれとして消費されて行ってしまう。

多様性を守りたい。本物の多様性を守りたい。
この世界の素晴らしいものを守ってきた人が、
報われる世界にしたい。

これが今の僕の、「多様性を保ったままグローバルにつながる」世界へと
一石を投じる道です。

そして、そのつながりから、街づくりや地域活性化の世界に興味を持ち、
「事業を継いだ2代目や数代目の経営者」さんたちとも出会い・・・
これまた、税理士にも、コンサルタントでも手が届かない領域があるなと。

なんだか最近は、不思議な使命感を感じながら、
毎日走り回っています。

【ここまで長い記事をご覧頂いて、ありがとうございます。
あなたとの出会いに、心から感謝を。
そして、あなたと、あなたの大切な人たちの人生が、
幸せに満ちたものでありますように!】

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