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話せないこと、疎外感。タブーにされる「死」

ここの所、死別・喪失体験のサポートをやってみて実感するのは、
「この社会には、“死”や“死別”について語れる場が、ないんだ」ということ。

 

たとえば自己啓発っぽく、スティーブジョブスっぽく、
「明日死ぬとしたら」って話すことは許される。

 

恋人が白血病で余命3ヶ月的な、
悲しい物語や美談として、
消費し、涙することも許される。

 

だけど、このリアルな人生で、
大切な人を亡くしたとき、
おそらく・・・特に寿命以外の形で、
誰かを亡くしてしまった場合。

 

その話ができる場が、ない。

 

僕自身、経験したことだけど、
大切な人を亡くしたことが、
スティグマにすらなっているような感覚すらある。

 

そういう話ができるのは、
3ヵ月後ぐらいまでで、

 

その後は、
なかったことにするか、
お茶を濁すか、
「だからこそ○○です!!」みたいな、
前向きな形にするか・・・

 

大切な人を亡くしたことや、
自分の気持ち、
その人への想い。

 

 

その人が亡くなったことを
きっかけに起こってしまったこと。
いつまでも忘れられないこと。

 

そういうことを、
言葉にしたいとき、
誰かにわかって欲しいとき。

 

それだけじゃなく、
日常会話で、家族構成を聞かれたり、
大切な人について話題がふられたとき。

 

話せない。

 

 

死は、どこにだってあるのに、
僕だって、目の前の人だっていつか死ぬのに、
リアルな「死」という話題は、
タブーになっている、感じがする。

 

そんな話を出したら、
相手は、びびる、避ける、励ます、落ち込む。
謝りだしたりもする。

 

落ち込ませたくて話したわけでもないのに。

 

そしてそんな反応は、
疎外感を生み出す。

 

そんな過去と現在を持っていることが
まるで、罪であるかのように感じてしまう。

 

 

結果、ごまかしたり、なかったことにしたり、
変に前向きな話にせざるをえなくなる。

 

 

そして、

そして、切り離された自分が、孤独になってしまう。
おしこめられた心が、凝り固まっていく。

 

 

失恋でも、借金でも、受験の失敗でも、
悲しい話、苦しい話しって、

 

誰かにしたいものなのに、
誰かに受け止めて欲しいのに。

 

そして、そうしてくれる人がいるだけで、
本当に楽になるのに。

 

 

そんな場や人に出会うのが、とても難しい。
「死」に関しては、

 

 

なんだかタブーになっている感じがする。

 

なんだか、そういうことが、
夢や、仕事や、恋愛や、ボランティア活動や、趣味のように、

 

その人の、人生の大切な一部として、

 

受け止められる。
話すことができる。
共有する場がある。

 

そんな社会になるといいなぁ。

 

追記:

この感覚は、もしかしたら、
「マイノリティ」「弱者」「サバイバー」
といわれる人たちが感じる感覚と、
どこか似通ったところがあるのかも、という気がします。

なんというか、
「これがスタンダード」
という形から「外れた」とされたものに対して、

僕たちの社会が持つ、
異様な恐れというか、隔絶感と言うか。

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