僕は、どうも「普通」の動きができなかったらしく、
子どものころ「特殊学級に入れたほうがいい」と言われた。
実際に、どうやって人と一緒にやっていっていいか、
わからなかった。
みんなと仲良くなりたいし、
クラスの役に立ちたいし、
みんなに面白がってほしかったけど、
どれだけがんばっても空回り。
相手(クラスメート)も子どもだから、
僕の「変な」行動にたいして、
非難や攻撃や嘲笑で答えてしまう。
当時の大人たちは、
僕が、人よりも字が下手なことや、
人よりも忘れっぽいこと、
集中力に波があることを、
根性の無さや
やる気の無さや、
人間性の欠如、と言うことにした。
すごくがんばったけど、
普通にはなれなかったし、
人並みにもなれなかった。
その経験は、
僕に大きい影響を与えてる。
日本。
「正常」「普通」「こうあるべき」
という幅が狭くて、
その狭い狭い「OK」な場所から外れたものを
簡単に、非人間化し、排除する。
それを見るたびに、つらいし、怒りを覚える。
言葉の通じない個人や集団、
別の文化で動く個人や集団、
自分とは違う事情で動く個人や集団
自分と違う主張をする個人や集団
そういうものは、
簡単に「劣等」「非人道」「意識低い」「害悪」
とレッテルをはり、
失業した父親を自殺させ、
ホームレスを狩り、
電車にのる妊婦さんのお腹を殴り、
凶悪犯罪を犯した人の家族を自殺に追いやり、
別の言葉や、民族や、人種である人たちを攻撃する。
(参考記事:
『秋葉原事件』加藤智大の弟、
自殺1週間前に語っていた「死ぬ理由に勝る、生きる理由がない」
http://www.j-cast.com/tv/2014/04/11201931.html 赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。
http://sakaiosamu.com/2014/0123090049/ )
だめなのはあいつだ。
これは社会のためだ。
これは正しい行動だ。
対話も、分かり合おうとする努力もなく、
それぞれにとって、都合のいい正義を叫ぶ。
相模原の「津久井やまゆり園」の件は、
受け入れがたい行為だし、防ぐべきことだったけれど。
彼の言説を支えたのは、社会、あるいは文化、風潮だと思う。
彼は、もしかしたら、
薬を使っていたのかもしれないし、
精神的な病を抱えていたのかもしれない。
だけど、彼の思考に、言葉に、腕に、
言説を与え、
方向性を与え、
力を与えたのは、
この社会に流れる、
この「異質なものの排除」の感覚だと思う。
僕たちが日々選択する
対話の努力の放棄、
理解の努力の放棄
自分と違う人への、非人間化と攻撃。
それそのものが、
彼の行動に、本来あるべきではない「正当性」を、
与えてしまっているのかもしれない。
彼は、
僕たちがシェアをする大量の記事、
僕たちが日々、仲間と話す言葉、
異質な人に対する態度・行動・振る舞いの、
集積なのかもしれない。
あんなことはおきるべきではないし、
個人的にも、強い怒りを覚える。
世界を平和にするために、無実の抵抗できない人を殺す?
意思疎通ができないから!?
腹のそこからぐっと怒りがこみ上げてくる。
だけど、
彼自身も、こういう社会の中で、
傷つき、ゆがんで行ったのかもしれない。
彼は、実は僕と似たような思いを、
してきたのかもしれない。
それも、僕を救ってくれた、安全ネットなしで、
端的にいえば、
全国手をつなぐ育成会連合が、
今回出したメッセージのようなこと。
( http://zen-iku.jp/info/member/3223.html )
「あなたは、大切な存在だよ」
「安心して、堂々と生きて良いんだよ。」
と、伝えてもらえず、
その逆ばかり、
いわれてきたのかもしれない。
僕たちが繰り返している、
排除と抑圧の連鎖が、こんな悲劇や、
それ以外の、大小さまざまな悲劇を作り出しつづけているのかもしれない。
もうひとつ、参考記事:
「なぜ日本の男は苦しいのか?
女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」」
http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/47501