最近よく思い出すのが、村上隆の「芸術起業論」
そうしてあんなフィギュアが1体億円で売れてるかというと・・・
僕のまとめたい感じにまとめてくれているブログがないんだけど
(俺もその本コスタリカにもってきてないし・・)
このページの後半
http://www.peeler.jp/column/sugawara/0610.html、
こんな感じ。
引用してくれているのの一部を孫引きすると・・・
《なぜ、これまで、日本人アーティストは、
片手で数えるほどしか世界で通用しなかったのでしょうか。
単純です。
「欧米の芸術の世界のルールをふまえていなかったから」なのです。》
《西洋美術史の文脈に至るまでの入口をどう作るか。
それが重要なのです。》
アカデミックの世界でももちろん同じことで、
とにかく彼らの知的ゲームに合わせなきゃいけない。
これが僕みたいに学問をずっと離れてた身には結構大変。
知識量が圧倒的に少ない。
おもしろいんだけど、ばかばかしくも感じるし、
非西洋人が学問の世界で認められないという、
支配の構造を作り出してもいることに憤りも感じる。
もう、その土俵にきたんだから、精一杯それで戦ってやるけどさ。
ちなみに、その、知的ゲームというか、
相手の文脈にあわせてやらなきゃいけないとかは、
いろんなところでおきている。
ちなみに日常生活でもそうで、
平和大の生徒にはヒッピー的な人も多いので、
とりあえずスピリチュアル的なことに言及するとなんだか注目を浴びたりとか。
これには日本人だってところも要素として入ってるんだろうな。
言葉ができない分、先方のオリエンタリズムだって何だって利用してやる、と思ってる。
ひろさん英語できるじゃん・・・って、まあそうですが、
普段コーチングとか研修で使ってるみたいな豊かな表現がまったくできない。
だから、情報伝達はできるけど、
プロとして磨いてきた、巻き込んだり、
揺さぶったり、乗せたり・・・そういうのが難しい。
自分は自分の強みを使って、好き・得意だけじゃなく、
東洋人であることでも、なんでも、
とにかく使えるもの全部使って、戦ってやるとおもってる。
まあこれは東洋人が西洋人と付き合うときだけでなく、
日本でも、ビジネスシーンでも、形を変えて起きてたりする。
端的にいえば、マネジメント研修をするとき、
年配の人が居たら、とりあえず山本五十六の話をしなきゃいけない、みたいな。
でもやっぱ学問の世界は思いっきり厳格ではあると思う。
その理由が人種であれお金であれ年齢であれ地位であれ、
その場で、「よりえらい」ことになっている人や集団は、
自分の文脈に、相手を合わせさせることができる。
それ以外の「えらくない」人や集団は、
それにあわせて踊らないと、無視される。
僕も、意識的に、または無意識に(多くの場合は無意識に)
相手に躍らされている場面は、
一杯あると思う。