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敬意、対話、民主主義、「総理補佐官が若者に論破された」件。

「総理補佐官が、若者に論破された」というtogetterを見かけて思ったこと。

 

(興味ある人は検索すればすぐに出てくると思います。
それに疑問を投げかけるtogetterも見つかります)

 

まずは、
総理補佐官の対応は、
大失敗だったように見えます。

 

大人が、大人気なく、ムキになっちゃったら、
負けだ。

 

ただし・・・

この「若者」の使っている、
「バカ」、「脳みそ腐ってる」は、
相手の出した意見への反論ではなく、
相手の人格否定であるようにみえます。

 

おそらく戦争を憎むと言う立場の、
本来僕と似たような立場であろう人から、

こういう言葉が出てくるのは、
個人的には、とても悲しい。

 

似通った危機感や希望を、
もっているかもしれないゆえに。

 

・・・ここからは、やや自分のことを棚にあげての話になっちゃいますが。

 

利害関係や違憲の違う人を、
人として貶める(dehumanizeする)ことは、

 

戦争や差別や殺し合いが始まる、
一番最初の一歩であるのではないかと僕は思っています。

 

それは「○○人は犬畜生だ(だから搾取して/殺していい)」とか
「○○世代は害悪だ」とか、

 

そういう言説やらヘイトスピーチやらと同じ出所であるように感じます。

 

戦争はやめようとか、平和にしようとか、
命や生活を大切にしよう叫んでいる人が、

自分と違う意見の人を、
鬼や悪魔のように描写したりすることを、
良く見聞きします。

 

それは、

 

心無い言葉で、ヘイトスピーチやらをしている人たちと、
結局おなじ土俵でけんかしちゃってるように見え、

 

非難している相手と、同じことをしているように見え、
それはなんだか僕には悲しいことです。

 

僕は民主主義という政治のシステムが、
標榜しているほど機能しているのかにはやや疑問がありますが、

(かといってこれよりもさらに良いシステムがあるかの確証はないけど)

 

少なくとも、民主主義の根本的な理念ということになっているはずの、
「一緒に話し合って考えよう」という理念は好きです。

 

お互いを非人間化dehumanize して、
貶めている限り、
一緒に話し合って考えることは難しいと思います。

 

僕はこの若者が、
間違っているといいたいわけではなくて、
むしろ意見としては、どちらかと言うと賛成で。

 

ただ、その主張の仕方の問題。

これは対話になってない。
平和だといっている側が勝ったとして、
同じことが繰り返されそうな気がしている。

 

僕が言いたいことはそれが間違ってるというよりも、
僕は悲しいということなんだけども。

 

僕はもう、ただたんに、多様性があって、いろんなやつが集まってて、

お互いが、お互いにとって変なやつらばっかりだから、
結果として変なやつなんていなくて、

 

「みんな違ってそれが素敵、違うのが面白い!」

 

っていう感じが共有できているのが楽しいし好きだし、ほっとする。

 

そして、その逆は息が詰まる。
日本にいても、他の国にいても、
一つの文化や規範に基づいて行動しろっていわれても苦しい。

 

「違うやつら」を排斥する傾向が強い場所にいると、僕は不安だし怖い。

 

なので、僕が、僕の幸せのために、
そういう多文化的な環境に居たいし、
そういう場所が広がるといいなって。

 

そんなことを思いながら、
仕事をしたりしていて。

 

この「若者」をあげつらうつもりはないんですが、
(というか、むしろこの「若者」ましなほうではないかと。)

 

たまたま今回の記事をキッカケに、
じりじりあがってた、

僕の中の気になるメーターが、閾値を越えたみたいなので。

 

追記①:国連平和大で興味深いワークをしました。

「アメリカ大統領が、アルカイダについて話しているスピーチ」と、
「オサマビンラディンが、アメリカについて書いている文章」の、

主語と目的語を入れ替えてみる、という作業です。

「彼らは、正義や普遍性の名の下に、
罪もなく武力も持たない人たちを殺し、虐げている。」
「彼らは倫理が欠如した人間で、自らの権益を守ることのみを考えている」
「彼らは、自らの犯した罪の対価を払うことになるだろう。
「我々が正義の名の下に、その贖罪をさせる。」

 

どっちにアメリカを入れても、
どっちにアルカイダ側を入れても、

文章が成り立ってしまいました。
なんだか、それを連想しました。

 

追記②
もうひとつ・・・これはもう重箱の隅みたいな話かもしれないけど、
ちょっと気になったのは、その記事が
「議論」を吹っかけた側を「10代女子」と描写していること。

 

これ、議論を吹っかけた側が男性だったら、「10代男子」と書いただろうか?
10代ってのはもう年齢差で、本来年齢差には能力の違いがあるから、
10代に補佐官の対応としては適切ではないと思う(特に一番最初のリアクション)

でも、じゃあなぜあえて「女子」なんだろうか?

 

「女子」に論破されたということで(あれが実際に論破かどうかという議論はおいといて)
より恥ずかしいことにしようとしていないだろうか?

 

・・・ということは「(10代かつ)女なんかに論破されて恥ずかしいな」「女だてらによくやった」という気持ちが隠れていないだろうか?

女性は男性よりも、能力が劣っているという思い込みや、女性は男性の前に出てはいけない
というような、思い込みが隠れていないだろうか?

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