「永遠のゼロ」という小説・映画があります。
僕も友人に進められ、目をうるませながら呼んだ記憶があります。。
また、この作品は、アメリカ軍の生き残りを含め、特攻に関わるさまざまな人たちの物語が自然と盛り込まれており、それが謎解きの形をとって展開していく・・・時間を忘れて読みました。
さまざまな当事者の視点からかかれる特攻には、
リアリティを感じ、時間をかけて調査をしたんだろうなと想像しています。
そして同時に、なんともいえない違和感を感じていました。
その理由が、この記事を読んで分かりました。
(読むまでもなく気づく人も一杯いると思うけど)
特攻の予科練に入隊したものの、出撃前に終戦を向かえ生き残った方の新聞への投書です。
(本文は以下のリンクに。)
https://pbs.twimg.com/media/BnesEyrCUAEKzz8.jpg:large
この方は、日本のために、進んで命をささげる行為が美しいと感じ、予科練に入隊。
しかし、隔離されたで、上官から「犬にも劣る」といわれ、暴力を受け、
「心も思想もなくし、私は人間ではなくなった。消耗品だった」と振り返ります。
この方はこれから若者がまた戦場に送られるのではないかと危機感を感じているとのこと。
「行くな!行ってはならなぬ、地獄だぞ!」という言葉と共に投書を締めくくっています。
この小説には、おそらくとても重要な視点がひとつ、当事者の視点から描かれていない。
特攻に反対する視点、特攻を誤りだったとする視点です。
あれだけ大変な体験だったなら、
そしてその後の日本のたどった道を考えるなら、
そういう視点も絶対にあるはず。
しかしこの作品では、
特攻を誤りや洗脳の産物だとする視点は、
現代人の、(それもちょっと性格の悪い)ある男性の視点として提示され、
結果として、取るに足らない、
ゆがんだ人間の意見として処理されているように見えます。
実際に、当事者として、特攻を地獄であったと、
あのようなものはなかったほうがよかったと叫ぶ人がいることも、心に留めておきたい物語です。
■さてさて、ここからはちょっと脱線?
特攻に行ったわれわれの先祖の、
命を捨てるという覚悟を前にして、
私自身、頭を垂れる思いで、
「自分にはこんなことができるだろうか?」と問いかけてしまいます。
そこには、ある種の敬意を覚えるし、
日本を守ろうという想いに感謝することそのものは、否定するつもりありません。
僕には想像つかないような現状で、
一人ひとり、それぞれ悩みながら、特攻に関わったのだろうと思いますし、
その体験・出来事・決意の重さには、頭をたれることしかできません。
彼らは、僕にはない強さを持っています。
そして同時に、
意図と、行動の妥当性を、
切り分けて考えるべきだと思います。
特攻という作戦は、
例えそれが母国を守る意図の下に打ち立てられたとしても
非人間的な行動であるように見えます。
(戦争そのものが、というべきかもしれませんが。)
(それと、そのころの作戦立案者が、本当に日本を守りたかったのか、自分自身の既得権益や命を守りたかっただけなのかというところも、注意して考える必要があります。)
さてさて、意図と行動の妥当性について
民主主義を広めるという意図で、ベトナムに枯葉剤をまく。
大事な娘をしつけるという意図で、
女の子は自らを殺して男性に奉仕しなければならないと教え込む。
僕たちは、どれだけ善意だったとしても、
妥当でない行動をしてしまうことがある。
あるいはおかれた状況が、そもそも選択肢を与えないこともある。
意図がどれだけ素晴らしいものでも、行動が妥当でないことがある。
逆に、どれだけ妥当でない行動であったとしても、
意図を汲み取ることで、他者との和解ができたり、自分自身を許すことができる。
(必要に応じて意図と行動の妥当性を切り分けて判断できるのは、
成熟した大人としての能力でもあると思います)
特攻という作戦の立案と実行を否定することは、
彼らの意図を否定することにはつながらないし、
彼らの意図に敬意や感謝を持つことは、
作戦そのものを肯定することにもつながらないと思います。
というわけで、
僕は特攻隊一人ひとりの決断や行動には敬意と尊重の念を持ちつつ、
やっぱり、繰り返してはならないことだと思いますし、
特攻という作戦を賛美することには、
人の命の価値を踏みにじる危険性を感じます。
■もうひとつ、文脈を観るのも大切ですね。
長くなったてしまったので端的にいうと、
その当時には妥当だったものが、
今は妥当ではないものもあるし、
逆に、あるものがいま妥当ではなくても、
過去には十分な理由をもっているものだったかもしれないということです。
手塚治虫の作品に、戯画化されたアフリカ人・ネイティブアメリカンがよく出てきます。
現代の視点からは、黒人差別だと非難される可能性の高いものです。
そして、あの時代には、それは作品をおもしろくする上で問題のないものだとされていました。
物事は、文脈に当てはめて評価する必要があるし、
こちらの世界に当てはめるときに、もう一度今の文脈を考え直す必要がある。
手塚治虫の作品が素晴らしいからといって、
現代も差別的な描写を作り出して許されるというわけではなく、
また、現代の目から見て差別的な描写があるからといって、
手塚治虫の価値が否定されるわけではない。
永遠のゼロは、その点、やや偏りのある方向性とはいえ、
当時の文脈を見事にたちあげていると思います。
そして、それは過去の文脈であって、
だから日本はこれから特攻をしていい、という話ではありません。
まあそんなわけで、
永遠のゼロは、僕はとてもよくできた作品だと思います。一読に値します。
ただし、重要な視点が欠けていること、
あるいは矮小化され却下されていることを、
覚えておきたいなと。